とますか日記 vol.5:弱肉強食の味!? 〜 猫と、豚と、生存戦略の話

 

それは車に轢かれた猫から始まった…

今朝、心優しいスタッフの一人から、以下のようなメールをもらいました。一部、本人の了承を得て転載させていただきます。

~昨日の夕方、ちょっと悲しい出来事がありました。
帰宅途中に目の前で猫が轢かれ、ちょっと考えた後に袋とタオル、手袋を持って向かったら、もう一匹がまた目の前で轢かれ…。
二匹目の猫はまだ息があり、タオルをかけて息を引き取るまでの10分間くらい、小さな体に手を添えていました。苦しそうに死んでくのに何もできない無力さとか、申し訳なさとか色々思いながら、轢いてしまったバリ人のおじさんと一緒に道路側にしゃがんでいました。

(中略)…我々が便利さを求め車をガンガン走らせる中で、弱きものは排除されていくんだな、と。しかも排除する側は無意識で。…だからどうするという答えはないんですが、無意識に自分以外のものを排除する仕組みには敏感でい続けたいし、そうでない社会に少しでもしていきたい。そんなことを思う夜でした~

皆さんは、動物が目の前で轢かれてしまった時、どうしますか?何を感じますか?
私はそんな状況を目の当たりにする度に、思慮に耽ってしまいます。こんな感じで。

可哀想…家に連れて帰って土に埋めてあげようか。
いや、でも道で亡くなる動物を全て家に持ち帰って埋めることはできないし、この子だけそれをすることが正しいのかもよくわからない。
せめて、もう一度轢かれないように道の端に寄せる?
でもそれがカエルやトカゲだったらどう?
よく道で干からびて死んでいるけど、しないなぁ。
干からびているから?体内の水分量の話?
死後経過した時間の話?
大きさの問題?
でも蛇は犬や猫より確実に体が長いけど、端に寄せてあげようとは思わない…。
犬や猫は「ペット」として身近な存在だという認識が無意識にあるから、特別?
感情があるから愛着を持ちやすい?
可愛いから???

と疑問は止まらなくなるのですが…。

では、鶏や豚、牛はどうでしょう?

彼らは私たちに食べられるために殺され、鶏肉、豚肉、牛肉としてぶつ切りにされてパッケージに入って売られていますが、それについてはなんの悲しみも罪悪感もなくカゴに入れて購入し食べるわけで…。さらには、お腹がいっぱいになれば残して、食品廃棄物として捨ててしまっているんですよね。

 

豚の命で実感した、弱肉強食の味

猫や犬の死に心を痛めながら、鶏や豚や牛の死にはそう感じない。

それがどんなに理不尽な感覚なのかガツンと気付かされたのは、トンガやサモアでの自給自足の生活でした。

サモアでは、鳥も豚も牛も、パックに入っているわけではなく、殺さなければ食べられないので、朝まで家の周りをブヒブヒ歩き回っていた子豚が、夜には丸焼きになっていたりするわけです。

鶏を絞めるのも、豚の頭にココナッツを思い切り投げて失神させるのも、ましてや豚や牛を解体するのも、当たり前ですが自分たちでしなくてはいけません。

初めて豚の解体を見たときの感覚は、今でもはっきり覚えています。

失神している豚が起きる前に首を縦に切り、男たちが手を血で真っ赤に染めて内臓を取り出すところを見て、「可哀想」という感情は瞬時に通り過ぎました。そして自分が数時間後に食べることになる豚が解体されるのを、体が熱くなるのを感じながら、目を見開いて最後まで見納めました。

このときわかったのは、スーパーで買ったお肉を食べる私たちとサバンナで獲物を食すライオンは、なんら根本的には変わらないということ。
自分も、自分より弱いものを食べて生存している「動物」なんだということ。
命は命によってしか生きられないこと。
生きるために優秀な術を持っている生き物が生き抜くこと。

 

それを体で感じた時、喉の奥で血の味がした気がしました。

 

動物界のなかで本能として「命」をいただく

あれから私は、お肉を残さなくなりました。

サモアを離れて9年経ちますが、今でも、(毎回ではないですが)お皿の上のお肉を見るたびに、元の姿が脳裏に浮かびます。

それから私は、豚の捌き方を練習しました。自分が美味しく食べるのに、可哀想だから殺せない、という自分の無責任さを、もう容認できなくなったからです。
豚をココナッツを投げて失神させることも、できるようになりました。無人島では野生イノシシを追って捕まえて食べました。ココナッツが的を外れ、逆にイノシシに追われヤシの木を登って凌いだこともあります。だから「猪突猛進」という四字熟語の意味を、体で知っています。笑

そのうち私は、豚や牛などの動物を見て「美味しそう?」と思うようになりました。

それは私の中から、動物が「絵本に出てくるお友達」や「ペット」という概念が消え去り、「標的」になったからなのかもしれません。

 

人間界も、本質は弱肉強食なの?

では人間界ではどうなのでしょう?動物界の一員として、弱肉強食の感覚にすっかり慣れてきた私でしたが、どうしてもしっくりこなかったことがあります。それは、

「弱肉強食」が自然の摂理なら、人間社会においても、本質は「弱肉強食」なのか。

ということです。そして私はまた思慮に耽っていました。

弱肉強食が人間社会においても本質であるなら、なんで私は社会的弱者を支援するのだろう?
社会的弱者に寄り添うことは、本質的に間違っている?
それはただの自己満足?
例えば人命救助において、本来自然淘汰されるはずの命を救うことで世界の人口は増え続け、結局地球上の人間が必要な需要が供給を上回る現象に寄与したのならば、人命救助は結局、地球全体の首を絞める結果になるんだろうか…?

 

とかまた思考が巡っていたわけです。

 

「弱肉強食」ではなく、「適者生存」

そんな時に出会った記事が、衝撃的でした。
今の人間界ではなぜ弱肉強食が行われないのか、優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのか」というYahoo!知恵袋の質問への回答が実に秀逸で、数年してからメディアで取り上げられ話題になったものです。

その質問への回答の要点はこうでした。

‟自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」、種レベルでは「適者生存」。「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残る。そして自然には「適応」の仕方が無数に可能性がある以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第。

人間の生存戦略は「社会性」。高度に機能的な社会を作り、個別的には長期の生存が不可能な個体も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する。

どういう「形質」がどういう環境で生存に有利に働くかは、計算不可能。例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれない。

だからどれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の「弱者」を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例する。

アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいない。ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」。

我々全員が「弱者」であり、「弱者」たちが集まって、できるだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのがホモ・サピエンスの生存戦略。最後は「協働」しないと人間は生き延びられない。”

 

なるほど!!!

社会科学だけではなく、文化人類学、生物学、進化論、倫理、人権、宗教など多角的に見てみれば万と見解があることだと思いますが、一説として、しっくりきた考え方でした。

 

そして、思慮の果てにたどり着いたこと

もちろん私が支援活動をするのは、ホモ・サピエンスの遺伝子を次世代に受けつぐためだけではありません。

倫理でも道徳でもなく、もっと直感的なものです。

しかし、人間の「直感」には、生物学的な理由や、もしかしたら人類がまだひも解くことができないレベルのロジックが背景にあると感じます。そういう意味では、「闘争や競争」という人間の性質によって地球環境と社会があらゆる危機に晒される現代に、一方で多くの人が「協働して共存」しようとするのは、決して自然の摂理に反することではなく、理に適っているのだと、納得させてくれた記事でした。

 

だから、轢かれた猫に心を痛めるのも、豚の生肉に目をギラギラさせるのも、弱者のみならず「自分以外のもの」に無関心な社会に違和感を覚えるのも、そうでない寛容な社会を創ろうとするのも、どれも人間らしく、理にかなっているのかもしれません。

 

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