壮絶な人生を送るベラが最愛の母から学んだ「分かち合うこと」「許すこと」
ベラのスピーチは、会場に集まった聴衆の心を強く動かし、Q&Aセッションはいつまでも続き、聴衆の中から共同支援プロジェクトが立ち上がり、Co-giving Projectと称して、11月から、6カ国9名のプロフェッショナルによるコンサルティング支援が行われています。
ここでは、多くの聴衆の心に深く突き刺さり、共同支援プロジェクトが立ち上がるきっかけとなった、ベラのスピーチの一部をご紹介します。少し長いですが、ぜひご一読ください!
母の思いを未来へ受け継ぐために
独立間もなく、長い間他国の支配下にあり内乱が続いた東ティモールでは、女性が暴力の被害者になるのは当たり前のことでした。私も父に、僅か5ドルでインドネシア軍に売られた経験があります。
私の母も、父から酷い暴力を受け続け、このままでは生き延びれないと覚悟を決め、父と離婚しました。東ティモールで女性から離婚を申し出るのは、非難の的になり、大変勇気がいることでしたが、母はやり遂げたのです。
母の身に起こった真実を、私はTEDを始め多くの公の場で伝えてきました。
東ティモールでは、家庭内の問題を語るのはタブーであり、たとえ嘘をついてでも自分の家族を良く語るのが女性の美徳とされていました。だから、ありのままを伝える私は非難されてきました。
でも私は、真実を語ることで母と同じような環境に苦しむ他の女性たちを勇気づけたいのです。それは暴力をふるう男性を刑務所にいれたいからではなく、暴力がなく、お互いを愛し尊敬し合う社会へと、社会を変えたいからです。
私の大切な母は、3年前に他界しました。
母は、東ティモールで1950年代に女性のための学校を作った人です。母がどんなに素晴らしい女性だったか、母の話をさせてください
1万人が弔問に訪れた、母の葬儀
私の母が亡くなったとき、母が残したのは銀行口座の10万ドルと、一緒に建てた1階建ての家でした。1セントたりとも、母が持っていくことはなかったのです。
彼女が今まで働いて得てきた物は、何一つ一緒に埋葬されず、私たち子どもが選んだ服のみを身につけ、母は埋葬されました。必死に働いて、手に入れてきたものでも、死ぬときは何も持っていけないのだと実感しました。
しかし驚いたことに、母の葬式には1万人もの人々が集まりました。
なぜだと思いますか?
それは、母が彼ら1人1人の人生に関わってきたから。母は教師として、本当に多くの人生に影響を及ぼしたからなのです。
明日の食べ物に困っていても隣人に分け与える 母から学んだ「見返りを求めない愛」
私はどこへ行っても
「トレザ(母の名前)の娘さんでしょう?」
「あなたのお母さんはトレザ・ガルヨスでしょう?」
と声をかけられます。
母の行いが、それほど人々の心に残っているからです。私はそれにとても救われているし、母を誇りに思います。
大人になり、私は母から素晴らしい人生の教訓を学んだのだと実感しています。
例えば、愛する人に見返りを求めない愛情を。
相手が自分に優しくてもそうでなくても、相手に親切にすることを。
私は、見返りを求めずにたくさんの人々に与え続けた母の背中を見て育ちました。
たとえば、今でも覚えていることがあります。
ある日、母は私たちの2日分のご飯を隣人にあげてしまいました。その家庭には私たちより小さな子どもがいて、お腹を空かせて泣いていたからです。
幼い私は怒って、「ママ、明日私たちが食べるものはどうするの?」と聞くと、「あなたたちは我慢できる」と文句を言う私や兄弟たちに母は言いました。
「あなたたちは死なないわ。でもあの小さな子どもたちは、今日食べれなければ死んでしまうかもしれない。
だから彼らにあげるのよ。明日にはまた私たちに必要なものが手に入るはずよ」
母はそのような姿を示すことで、私たちに多くを教えてくれました。母はよく言っていました。
「食べなさい、飢えをなくすために。飲みなさい、渇きをなくすために」と。
大人になるまでこの言葉の真意がわかりませんでしたが、今になってやっと理解することができました。母は分かち合いの大切さについて説いていたのです。これは、
「自分のお腹がいっぱいになるまで食べなさい、喉が潤うまで飲みなさい」ということではなく、「自分のお腹を満たしたら、残りは人と分かち合いなさい。人と分かち合えるようになるために、豊かになりなさい」ということだったのです。
だから私は、たとえお財布が潤うことがあっても、必要最低限以上の贅沢をせず、人に分け与えます。それは母が教えてくれた中でも、大きな学びでした。
必要以上のものを手に入れているなら それは「分かち合う」ときが来たということ
もし、あなたも必要以上のものを手に入れられるようになったら、それは周りと分かち合うときだということです。
経済的に恵まれた環境に生まれた人たちはたくさんいます。
アスカとトモ(注:EC共同創設者・濱川明日香/知宏)もそうです。ビーチで優雅に楽しむ人生も選べただろうに、そうせずに私たちが住む田舎まで足を運んでくれます。
電気はなく、蚊だらけで、とても暑く、何ももてなすことができませんが、彼らは来てくれます。
人生の意味は、そのような行為の中にあるのだと思います。
分かち合うから、人々の記憶に残る
そして私は自分に問いかけました。「快適な生活があって、いい家もあり、美しい娘やパートナーもいて、仕事も充実している。他に必要なものなどあるのか」と。
私は十分手に入れたと思います。だから私は「欲する」段階は終え、「持続させる」ことに注力しようと思いました。
幼い頃のように、毎日おかゆやほうれん草や茹でバナナばかりを食べる生活には戻らなくていいように。
自分が満足できる分だけ食べたら、残りは分かち合うこと。そのことをできる限り続けていきたいのです。
アスカやトモのような人たちは、自分の人生を楽しみつつも、他の人々も楽しむことを望んでいます。だから、他の人々に与えられるものがあれば、分かち合うのです。そうすれば死ぬとき、人々の記憶に残るのです。
私の母が今でも多くの人々の記憶に残っているように。
兄弟を殺したインドネシア軍を許すことも 母から学んだ
母からは、もう1つ大切なことを学びました。それは、私の家族を殺したインドネシア軍を許すということです。
怒っても憎んでも、兄弟の命が戻ってくることはありません。怒りを持ち続けることで精神的に蝕まれるのは、私自身です。それは何の意味もありません。
母は、我が子を殺したインドネシア軍を許しました。母にできて、私にできないはずがありません。
私はいつも先人たちの背中を見ています。先人たちが逆境を跳ね返し生き抜く力を示してくれたのですから、私たち若者もそれを手本に、続いていくべきです。
「憎む」ではなく「許さない」でもなく、「愛する」
「許す」のは容易なことではありませんが、人生の苦境の中で、私はその大切さを学びました。
私には45人の兄弟姉妹がいて、父には18人の妻がいました。私は長女として、半分の兄弟姉妹の面倒を見て、学校にも通わせました。父は手伝ってくれなかったし、私たちを食べていかせるお金もありませんでした。
それだけではなく、私や母や姉妹たちに、言葉にはできないくらい酷い暴力を続けてきました。
ただ彼は子作りだけは得意でした。だから私は父によく「お父さん、お願いだからもう子作りはやめて」と言っていました。このことを冗談っぽく話すときもありますが、本当にやめてほしいと頼んでいたのです。
このような父を、恨むこともできます。しかし、私はそうしたくないし、そうしないと決めました。
父が私に謝ることはないでしょう。
もし彼にその気持ちがあっても、彼はできないと思います。なぜなら彼は両親から謝ることを教わっていないからです。父が育った背景や環境について知れば知るほど、父の暴力は父だけのせいではないと思うようになりました。
父の人生の中のさまざまな要素が、父の人格を形成してきたのです。だから私は父を許し、父に言います。
「お父さんのこと好きではないけど、愛している」と。父は「どういう意味だ?」と聞きます。「言葉の通り。あなたは私の父だから愛しているけど、好きではない」と答えます。
しつこく聞いてくる父に、「あなたの行動は、私たちを傷つけた」「今は、あなたが変わってきていることを願う」と言います。
愛する母の思いを受け継いで、今―
私がECの支援を受けて設立したルブロラ・グリーンスクール(LGS)は、首都から離れた山間部にあります。
この地を選んだ理由は2つあります。1つは、母の出身地だったから。そしてもう1つが、多くの若者が故郷を捨て都会へと移住した結果、路頭に迷う現状を変えたかったからです。
見捨てられた広大な土地は、大きな可能性を秘めています。
東ティモールは、石油資源を輸出し、90%以上の生活必需品を輸入している石油依存型の経済で、農業など他の産業がなおざりになっているのが現状です。
だから私はこの小さな地域で、石油依存型経済とは異なる、自然と共存する、持続可能な発展モデルの成功事例を作りたいのです。そうしたら、他の地域にもこのモデルが広がっていくでしょうから。
3年前までは何もなかった場所にLGSが設立され、色とりどりの花や作物を育ててきた結果、今や東ティモールで最も美しい場所だと、訪れる人の誰もが称賛してくれるようになりました。
私はこの地で、母の思いを絶やさずに、次世代の若者たち子どもたちへと受け継いでいきたいと思っています。