12月 28, 2018

とますか日記 VOL.9:知宏が初めて明かすチベットのヒーロー「ペロ」の存在

明日香にとってのベラ=僕にとってのペロ 妻明日香とEarth Companyという団体を立ち上げて4年強になりますが、団体を発足したのは「唯一無二」、「未来を託された逸材」のチェンジメーカーを支援するためです。その人物像とは、まさに我々が最初に支援した東チモールのベラ・ガルヨスであり、HPの団体概要ページに彼女に対する思いや支援の経緯などは書かせてもらっています。

明日香にとってのベラ=僕にとってのペロ

 

妻明日香とEarth Companyという団体を立ち上げて4年強になりますが、団体を発足したのは「唯一無二」、「未来を託された逸材」のチェンジメーカーを支援するためです。その人物像とは、まさに我々が最初に支援した東チモールのベラ・ガルヨスであり、HPの団体概要ページに彼女に対する思いや支援の経緯などは書かせてもらっています。

ベラは元々、明日香がハワイ留学時代に知り合った友人で、ベラが何か大きく動くときに必ず支援しようと明日香は決めていました。実際、数年後ベラが「グリーンビレッジ」の構想を描き始めたのをきっかけに、我々の支援が始まりました。

「ベラという存在がEarth Company発足のきっかけになった」と今まで公表してきましたが、実は団体発足に関わる重要人物がもう一人いるのです。彼の名前はチベット人のツェリン・ペロ(Tsering Perlo)

明日香にとってのベラは、僕にとってのペロです。今回は、そのペロについて紹介させて頂きます。

 

標高4000mの「最果て」の遊牧民出身

 

誕生日の記録は残っていないですが笑、ペロは1977年の冬、四川省石渠県に、遊牧民の家族に生まれました。

四川省と聞くと、「チベット人なのに四川省?」と思われるかもしれませんので、ここでチベットの説明を簡単にさせていただきます。(この場で国際政治の話は正直したくないのですが、チベットは残念ながら政治なしでは語ることができません)

まず、誤解されがちですが、「チベット」という国は存在しません。

「世界の屋根」と呼ばれる広大なチベット高原に大昔からチベット人は住んでいましたが、1950年に中国人民解放軍の「チベット侵攻」により、中国の一部となってから70年近くの月日が経ちます。侵攻の際に、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世とチベット人たちはインドに逃亡し、その後「亡命政府」を作りました。

中国の一部となったチベットですが、中国が定める「チベット自治区」と呼ばれている地区以外にもチベット高原は地理的に広がり、自治区の周りの青海省、甘粛省、四川省、雲南省にチベット人は多く住んでいます。その一角である四川省のチベット高原に、冬はマイナス20度となる過酷な環境でペロは生まれ育ちました。

 

 

彼の家は物語に出てきそうな遊牧民一家でした。チベット高原の遊牧民には春と秋がなく夏はテントで生活し、冬はレンガの家で過ごします。

夏の間はヤクや羊など放牧をし、ミルクを絞りバターやチーズを作ります。その他、ヤクや羊の毛で毛糸を作ったり、燃料となるヤクのフンを集めたりと、チベットの夏は忙しいです。冬は夏と打って変わって、わずかな草を求めて放牧もしますが、ヤクのフンを集めるくらいで、仕事はほとんどありません。

 

ペロの出身地近くの村で出会った女の子 撮影:ツェリン・ペロ

 

そんな幼少時代を過ごしたペロは、非常に好奇心旺盛だったらしく、中学のとき500キロ離れたチベット文化・言語に特化した寮制の専門学校に行くことにしました。

そこでチベットの伝統工芸、芸術、哲学、天文学を学ぶ貴重な教育経験を得たため、ペロは他のチベット人に比べて自分の文化に対する理解が深く、その分チベット人のアイデンティティやプライドも高いです。そしてペロは卒業後、チベットの社会課題解決に貢献したいという情熱のもと、自然とNGOの仕事に惹かれていきました。

 

人生初の定職でペロと出会う

 

僕がペロと初めて出会ったのは、The Bridge Fundというチベットで活動するアメリカのNGOで働いていた時です。とますか日記vol.2でも書かせてもらいましたが、ハーバード大学を卒業後、2年間ほど迷走した結果ありついた人生初の定職です。

その仕事経験はペロなくして語れないくらい、彼の存在は重要でした。チベットの様々な課題を教えてくれる先生であり、プライベートでは最も仲のいい親友でありました。

彼の最大の魅力は、老若男女誰でも引き寄せる人柄です。

特に印象に残っているのは、彼と初めて山奥の村に一緒に行った時のことです。当時はまだプロジェクトを展開しておらず、ニーズを把握して、どのような介入をするべきか考える企画段階でした。

一軒一軒村を回り、家にいるお母さん、老人、子どもたちと座り込んで世間話をしながら聞き取り調査を行いましたが、ペロと一緒にいると、行く先々で話に花が咲き、どっかんどっかん笑いが響き、なかなか次の家に進めませんでした笑。聞き取り調査の結果を村の人たちと共有する集会を設けた際には、多くの村人たちが参加し、お酒なしなのにまるで宴会のように盛り上がりました

ペロは、人がとにかく好きなので、一緒にいる人をごく自然に楽しませることが出来ます。それはもちろんチベット人に限らず、オフィスを訪れる外国人でも、外国に行った際に会った見知らぬ人もです。

 

自分のやりたかった仕事だと確信させてくれた

 

そんな求心力を持つペロと一緒に働くことが出来たのは、ラッキーでした。

給与は低かったですが、ペロのような優秀で意識の高いチベット人の同僚と一緒に、チベットが抱える課題を解決していこうと奮闘する日々は非常に充実していました。標高4000mの「地球の果て」のような村に、車と馬を2日間乗り継いで、求められる支援を届ける感覚は特別でした。

「これこそ、自分がやりたかった仕事だ」と確信させてくれたのがペロをはじめとする当時のチベット人の同僚達でした。

チベットの同僚たちと。左から3番目がペロです。

 

彼らがいなければ、僕は国際開発という道を辿っていなかったかもしれません。

 

チベット文化保護・持続を目指す団体を立ち上げたペロを支援

2年間という短い期間でしたが、そのNGOで勤務後、僕は社会変革のもっとマクロな視点を得るためハーバードの大学院に行きました。

ペロも同時期に仕事を辞め、ラブサル(Rabsal)という自分の団体を立ち上げました。その団体とは、ペロが大好きな写真、映像、アートを通して、チベット文化を保護するだけではなく、若い世代を巻き込んで、消えていくチベットの伝統、風習、言語などを活性化させていくことをミッションとするものです。

彼は自分が組織経営やタスク管理に長けていないことを知っていたので、団体を立ち上げ運営していく上で僕に手伝ってもらえないか相談を受けました。もちろん快諾しました

これが僕の「IMPACT HERO支援」の原型です。後に結婚し、Earth Companyを一緒に始めることになる明日香ともまだ出会っていない、今から12年前のことです。

人並みならぬ情熱を持ち、常にコミュニティのことを一番に思い、周りの人からは冗談半分「ガンジー」と呼ばれるほど人望あるペロを支援しない選択肢はありませんでした。現場では自分みたいなよそ者が出来ることは限られていると十分理解している上で、自分にしか出来ない海外での資金調達や彼を代弁しての海外の団体とのパートナーシップ構築にはやりがいを非常に感じました。それが出来るのは、一緒に濃い時間を過ごし、お互いを信頼していたからです。

振り返れば、ペロに寄り添った支援は、大学院に通っている2年間、またその後インドに転勤してからの2年間の計4年間になりました。

給料はもちろん一切もらわず、毎月何十時間も費やし、年に1−2回自費でチベットを訪れながら、海外の財団から助成金2本を獲得、報告書等を作成しました。全て心から楽しかったですし、役に立てているという充実感もありました

 

ペロが制作に関わった映画が様々な映画賞を受賞!

 

ここ数年は様々な理由があり、ペロの活動は表舞台に出てくることが難しくなり、僕も支援できていないのが寂しい限りですが、一昔前に彼に寄り添った支援が大きく結果になった瞬間がありました。それは、ペロがアシスタント・ディレクター兼プロデューサーとして関わった、遊牧民の生活を描写したドキュメンタリー映画が数々の賞を受賞したことです。

この映画の舞台となる村は、ペロの生まれ育った地域にあり、主人公の夫婦はペロの友人です。素晴らしい映画なので、皆さんには以下のトレーラーだけでも是非観ていただきたいです。

 

 

僕はこの制作に直接は関わらなかったのですが、ずっと支援してきたペロがこのような輝かしい機会に巡り会い、しかもそれがペロの生まれ育った風景を撮った映画で賞賛を得ることができたというのは感慨深いものでした。まさに「IMPACT HERO支援」の醍醐味です。

 

今後また一緒に何かできることを願いながら

2011年7月、ペロの結婚式にて。

 

Earth Companyとして、今まで4人のIMPACT HEROを支援してきて、来月には5人目を公表します。そのIMPACT HEROの人物像は年々進化していますが、ペロは決して5人に劣らないヒーロー級の傑物です。いつか、何かしら、また支援出来たらいいなと強く思います。

 

そういえばけっこう長い間ペロと連絡をとっていないな…まずは連絡をとってみよう笑