とますか日記 VOL.14:「原体験」の場所サモアの私の家族を襲い続ける気候危機の真の脅威
こんにちは。代表理事の濱川明日香です。
2023年4月20日~5月6日までの17日間、私は家族とサモアを訪れていました。サモアは私にとって、私の価値観とキャリアとライフチョイスの全ての原体験となった特別な場所です。
今から20年前、米国の大学を5月に卒業し、翌年4月から外資系コンサルティング会社に就職が決まっていた私は、11ヶ月間、バックパックにテントと寝袋を入れ、バイトをしては沖縄の離島、ハワイ、オセアニアを点々と渡り歩いていました。
その時に訪れた、サモアの伝統の村での自給自足の生活、大切な「私のもう一つの家族」との出会い、そしてこのささやかで平和で幸せな彼らの暮らしを当時すでに脅かしていた気候変動の影響を目の当たりにしたことは、私を今の道に突き動かす原体験となりました。Earth CompanyもMana Earthly Paradiseも私の4人の子どもたちですら、この時のサモアとの出会いがなければ生まれていません。
(詳しくは、とますか日記「すべてはサモアから始まった~濱川明日香の原体験~」をご覧ください!)
そのサモアを再び訪れることになったのは、私の「もう一つの家族」が危機的な状況に陥っていってしまったからです。それは紛れもなく、気候変動の影響で。
今の私の人生観を培ってくれたサモアと
かけがえのない家族たちを脅かす気候危機
経済発展こそしていないけど、素朴なのに豊かで、当たり前のように地球と共存する彼らのあり方は、先人たちの智慧に溢れていました。
「サステナビリティ」に初めて触れたのもここ。
いつかサステナブルなコミュニティを作りたいと最初に思ったのもここ(後のマナです)。
命に常に向き合う自給自足の生活だからこそ「命」のエネルギーに満ちていて、先進国の住民やどんなに高等な教育を得た人たちより「命」の尊さや意味を知っていて、「サステナビリティ」という言葉が陳腐に聞こえるほど、「地球」で生きること、「命」の本質を、彼らは知っていました。
協力し合わなければ生きていけないから「調和」の中で生きていて、村の一人ひとりに役割があるから自分の存在価値に悩むこともなく、家族が本当に仲良くて、(もちろん問題がないわけでは全くないのですが)ここに先進国の人間が失った、地球上で幸せに生きていくためのヒントが、たくさんあるような気が当時の私にはしたのです。私が持っている人生観、哲学感の多くが、ここで培われたと言っても過言ではありません。
初めてサモアを訪れた時、この家族には3人の子どもがいました。その子たちは本当に可愛くて、私にとても懐き、私がサモアにいた3ヶ月間、一日の全てを一緒に過ごしていました。そしてここで過ごした3ヶ月の間にお母さんが妊娠し、なんとその子に「Aska」と名付けるというので、それは会いに帰ってこないと!と翌年また戻ることを約束し帰国しました。
その後コンサル会社に就職した後もサモアやこの子たちのことを考えない日は一日もなく、休暇のたびにサモアに行っていました。
連絡をとる術はなかったので、それから6年間、彼らにとって私は「ある日突然現れるお姉さん」と思われていたことでしょう。6年間の間に、サモアンAskaもすくすく育ち、人間の赤ちゃんどころか牛2頭にもAskaという名前がつけられ(速攻食べられましたが????)、さらに子どもは5人に増え、サモアに行くたびに私は育児に、生活に、忙しくしていました。
当時の写真を見ても、今の私自身の子どもの育児となんら変わらず、今思えば、私の育児スキルはサモア仕込みでした。私にとって彼らは、自分の子ども同然なのです。
その中で私の人生を大きく変えることとなったのは、彼らの暮らしを脅かしていた気候変動の影響でした。
詳しくは上記のブログに書いていますが、私が外資系コンサルティング会社に就職したのも、ハワイ大学大学院で太平洋における気候変動の影響を研究する道を選んだのも、サモアで経験した海面上昇の悲しい現実がきっかけです。大学院では、まさにこの村に毎年長期滞在し、この村の気候変動・海面上昇の影響、またそれによって彼らが失ったもの社会文化的側面から分析する現地調査を行い修士論文を書きましたが、環境省の職員と共に古い航空地図を政府文書の中から掘り起こし、グラフィックを重ねていくと、海岸がすでに大きく削られ、地形がすでに大きく変化していたことは明らかでした。
調べれば調べるほど、彼らの将来にどんなことが待ち受けているか予測がつきました。その状況がどれくらいのタイムスパンで来るのか、どのスケールで起こるのかは、それからの世界のアクションによるため、私が気候変動の解決に携わるキャリアを選んだのはごく自然なことでした。
ただ単に、愛する人たちの暮らしが、私たち先進国の人間が加害者である気候変動の影響で奪われていくことは耐え難かったし許しがたかったからです。
そしてまさにハワイ大学大学院で、私は夫の濱川知宏や初代IMPACT HEROのベラ・ガルヨス に出会い、後に知宏と結婚し、ベラを支援するためにEarth Companyを立ち上げ、バリ島に移住し私自身も大家族を築き、マナも生まれたため、私が今有意義な毎日を過ごせているのは、サモアの家族との出会いのおかげといっても何の過言もないのです。
私の愛する家族を襲った大地震と巨大津波
私が最後にサモアに行ったのは2009年。
サモアで大地震&大津波が起こり、多くのサモア人が全てを失いました。もちろん地震後連絡が一切とれなかったので私は生きた心地がせず、「もう行こう!」と決め、支援金調達を始めました。クラウドファンディングサイトが存在する前なので、マニュアルのクラウドファンディングです。
150万円集まったところで、ハワイの友人たちが大量に寄付してくれた服や物資や薬を持って、サモアに飛びました。発災から10日後でした。
私のファミリーは山側に住む親戚の家に避難していましたが、私が来ることを噂で聞きつけると、私がわかるように、家が流された海辺の跡地で私を待ってくれていました。電灯も流されたため、月と星の明かりしかない真っ暗な夜。私が気付けるように、いつも一緒に歌っていた曲を大きな声で歌いながら。みんなで号泣しての再会でした。幸い、みんな津波に一度は飲み込まれましたが、波が引く時に椰子の木にしがみつき、一命をとりとめ、生き延びていたのです。家や服や思い出の写真や、持ち物のほぼ全てを失ってしまっていましたが。
翌朝から私は、現地のニーズを把握し、お金を寄付するのではなく、みんなの家を建て直さなければならないので、木材を購入し、彼らの村を含む6の村の被災家庭に建材を届けることにしました。首都の木材会社も協力してくれ、全ての被災家族に無償で配達を提供してくれました。それによって私のファミリーも家を建て直し、運営していたビーチ宿の小屋も徐々に再建し、復興には長い時間と血と涙と汗を要しましたが、なんとか暮らしを取り戻し始める兆しが見え私はほっとしていました。
それが、彼らに会った最後でした。
気候変動の影響は海面上昇だけじゃない、
人々の未来を奪うリアルな影響
それから私は大学院を卒業し、今度は日本で大震災があったため日本での復興支援に携わり、その後気候変動で世界で最初に沈むと言われるツバルを支援する気候変動NGOに就職しました。そこからは結婚→出産→起業→育児→出産→起業→育児をしながらの組織運営に忙しくなってしまって、サモアにずっと行けずにいました。
その間も彼らのことを考えない日は一日もありませんでしたが、彼らのその後の状況がわからないまま、あっという間に8年が経ってしまっていました。
そんなある日、2017年、サモアの家族からFacebookで連絡があったのです!ようやくサモアの村でもスマホが徐々に普及し、連絡が取れるようになったのでした!
しかし懐かしい話に花咲かせたのも束の間、彼らの現状を聞くと、なんとそれはそれは酷い状況になっていました。彼らの生活は困窮し尽くし、お母さんは病気に苦しむもお金が尽きて治療が受けられず、仕送りをお願いしてきた親戚にもついに愛想をつかれてしまい、最後の手段として、お金を貯めてネットデータを購入して、私に連絡をしてきていたのでした。
私が忙しくなって、彼らをケアできていなかったことをとっても後悔しました。それから今に至るまで、彼らが困窮するたびに、仕送りをしてきました。
私が知る限り、2009年から今までに起こったことは以下の通りです。
① 2012年、巨大台風が来て再建した宿が再度倒壊
2012年12月、巨大台風エヴァンが訪れて、サモアの大部分が甚大な被害を受けました。
多くの道が洪水でブロックされ、空港の出発ロビーが倒壊し飛行場もシャットダウン。発電所と水処理場が倒壊したため多くのエリアで水と電気が2ヶ月復旧せず、600家屋が倒壊し、7500人が家を失いました。死者は14人だったものの約200億円(国のGDPの3割)の経済的な損害でした。(データ元)
これがまさにCOPなどの国際会議でも長年議論されている「損失と損害」です。「気候変動」は今や、近年言われるように「気候危機」と化しています。
ビーチ宿を運営する私のファミリーも例外でなく、この巨大台風によって、津波の後再建した8つのビーチ小屋のうち、5つが全壊、残りが半壊し、彼らの宿は実質営業停止状態に。津波から3年後、また、生計を失ってしまいました…
② お母さんが病気に
2020年頃、お母さんが肺に水が溜まる病気にかかり、肺と心臓に痛みを抱えていました。同時にリウマチらしき症状が出始め、指や膝、足首が曲げられず激痛に。
サモアの医療では様々な検査ができずリウマチ的症状と肺や心臓の関係性や、リウマチ的症状がリウマチなのかすらわからないため、血液検査をオーストラリアに送らねば結果がわからず、この医療費を仕送りし検査をしたところ、リウマチと診断。肺の状況は悪化し手術が必要になり、さらに仕送りをして去年手術を受け、ようやく今は胸の痛みがなくなりました。一時はリウマチの薬代を仕送りしていましたが、今年に入ってからは生活費に吸収されてしまい、薬を買えず痛みに苦しんでいたようです。
結局各症状の因果関係が未だにちゃんとわからずのままですが、サモアの医者によると、原因は「ストレス」とのこと。
③ 海面上昇が進み、度々家が床上浸水
私がサモアに通い続けた2004-2009年は、ビーチ宿に波が襲いかかるレベルの被害は一年に数回でしたが、近年は満月と新月のたびに強風が重なると一帯が浸水するほど海面上昇の影響は悪化していました。その度に道路や家や家具などが海藻やヘドロにまみれ、家や宿泊施設を高圧洗浄機で清掃しなければならないため、去年はその費用も仕送りしました。
④ 海岸侵食が進みビーチがなくなったため観光客が減り貧困に
以前は潮の干満を考慮してもビーチ宿から少なくとも10−20mあった海岸線が、今は満潮時にはビーチ宿の足元までくるようになってしまいました。海岸の侵食が激しく悪化したため、政府が海岸侵食を妨げるために大きな石を配置(これが気候変動用語で「適応策」と言われるものです)。
しかしこれによる効果はほとんどなく、海岸は侵食され続け、海岸線が迫ってくるだけでなく、砂の侵食でビーチは1mほど高度が下がっていました。
椰子の木の根っこが1mくらい露出しているのを見れば明らかです。そのため観光客は広い白砂のビーチがある宿を好み、ここに来ても波で朽ちた宿泊施設と侵食されたビーチを見ると泊まらず帰ってしまうように…。実質的に営業が困難になり、彼らはさらに貧困に陥っていきました。
気候危機への対応としては、大きく分けて、「緩和」、「適応」、「損失と損害」があります。
「緩和」は温室効果ガスの排出を削減するなどの根本解決、「適応」はすでに排出した温室効果ガスの影響で起こりうる被害に対応できるように適応策を導入すること、「損失と損害」は台風の被害などすでに起こってしまった損失や損害がちゃんと補償されること、を意味します。
そして、前代未聞の現象に対応するための「適応策」は、それがどれだけの効果を持つのか導入と検証と改善を繰り返さなければいけないことと、その国の財的・ナレッジ・技術的キャパシティに依存するため、即効性を持つ適応策の欠如が問題視されています。まさにこれもその一例です。
また太平洋諸国で海岸侵食は1990年から継続して起こっていると言われています(Source)。私が気候変動研究でこの村の老人たちに聞き取りをした際も、昔は大きな白砂のビーチだったと言っていたのを記憶しています。2004年には、白砂は流されすでに黒い砂のビーチになっていましたが、気候変動の影響には、景観ロスによる経済的損失もあるのです。
⑤ サモアで感染拡大したデング熱にかかり重症化
2017年は、サモアでデング熱が大規模蔓延しました。
私も2回感染経験があり、一度は入院しましたが、高熱に身体中の痛み、激しい頭痛や吐き気と嘔吐、下痢など、症状がとても辛い病気です。血小板が一定値以上低下すると、出血やショック症候群、臓器障害など重症デングへ発展する可能性があり、早期に適切な治療が行われなければ死に至ることもあります。
そのデング熱にサモアの家族の長女と長男が感染しましたが、もちろん病院に行くお金はありません。そんな中下2人も感染し、長女は吐血が始まり命を失うリスクのある重症デング出血熱に発展したと聞き、急遽仕送りをして病院に行ってもらいました。
気候変動により気温や降水量、またそのパターンが変化することで蚊の発生数等が増加することによる蚊媒介の感染症蔓延は、以前より危惧されている地球温暖化による「危機」の一つです。現に日本でも、2014年にデング熱が流行したのは記憶に新しいところかと思います。(日本における蚊媒体の感染症拡大リスクに関しては、環境省のこちらのページをご覧ください。)
⑥ 第4&5子が学校から退学通知&強制労働
昨年末、14歳のWilliamの中学と17歳のAskaの高校の学費が払えなくなり、退学通知を受けた挙げ句の果てに、「この日までに払えなければ退学」と言われたその日まで、授業を受けさせてもらえず、肉体労働を強いられていました。毎日泥だらけになって帰宅している、と悲しんだお母さんから連絡があり、翌朝学費を学校に送金しました。
⑦ 学費が払えず長女と長男も大学を自主退学
観光客が来ていた頃は多くの外国人や文化に触れることができ、村のチーフである威厳ある強く男らしい父と、神父様の娘である愛情深い母親に育てられた子どもたちは、実はとっても優秀なのです。
長女Sinaは弁護士になることを夢見て、国立サモア大学に通っていました。第二子PJは医者を目指して南太平洋大学サモア校に進学し、成績優秀だったため、あと一年行けば4年のメディカルスクールに全額奨学金をもらえるはずでした。しかし家族が貧困に陥ったため、2人は自主退学を余儀なくされ、夢を諦め、Sinaは村役場の2人のうち1人の職員として就職し、PJはニュージーランドにりんご狩りの出稼ぎに行きました。
第三子のJiriは運動神経がとても良く、15歳の時にサーフィンでサモア代表チームに選ばれ、サーフィンが盛んなオーストラリア、タヒチも含む太平洋全体のオセアニアカップでサモア代表チームは2位、U18の個人戦では4位に!ボクシングでもU18で全国2位になったことがあります。しかしもちろんトレーニングやサーフボードなどにかけるお金はありません。本当はプロサーファーになることを夢見ていますが、高校卒業後は、病気になった母親の薬代を稼ぐために、アメリカ領サモアの魚工場に出稼ぎに行き、魚の皮剥ぎバイトをしていました。今はサモアに戻り、兄と共に神学校に通っていますが、2人とも神父様になることが夢なわけではありません。
この3人の夢を叶えるサポートは、これからも個人的に続けていくつもりです。
⑧ また巨大台風が来て、食べ物が入手できず子どもたちが病気に
このブログを書くために過去のメッセージの履歴を読むと、台風被害関連でこれまでに3回の仕送りをしたようで、確実にその頻度は増えているのですが、去年の台風もまた甚大な影響を及ぼしました。
台風による豪雨と強風で、家や宿泊施設へのダメージに加えて、持っている服は全て濡れ、飼っていた数十匹の鶏や豚が逃げてしまい、お金が全くなかったため2週間食べるものがなく、水害後の衛生状況悪い環境にいたこともあり、両親と3、4、5番目の子どもたちが病気に。おそらくコロナでした。咳き込みながら送られてきたボイスメッセージを聞いて心が辛くなりました。
仕送りをして病院に行って薬をもらい回復の兆しが見えたものの、後日食べるものがあるのか聞いてみると、「水とパパイヤで凌いでるから大丈夫だよ」とのメッセージに、追加で食料費を送ったのでした。
「気候」というものは非常に複雑で、19世紀と比べると台風の発生率が減少しているという研究結果もありますが(長期的な信用できるデータの不足によりデータの正確性が疑問視されてもいます)、大事なのは台風の数だけではありません。
台風の数や影響は地域によっても異なります。太平洋では、日本と同様、台風の数が大幅に増えているわけではありませんが、起こる台風のスケールが大型化している、つまり大型台風の数が増えていると言われています(source)。そしてそれが現地の人たちの暮らしにどのような影響を与えているか、被害のスケールを深く理解することも大事なのです。建物へのダメージや、健康被害による医療費などの経済損失だけが「損失と損害」なのではなく、これらの大型台風が続くことにより失う経済機会や、それにより陥る貧困、そのせいで失われる教育機会、それらも充分気候変動の影響です。
気候危機とは…
気候危機の被害に苦しみ続ける家族と共に歩んできたこの20年を踏まえて今思うのは、気候危機とは、夢を諦めることだということです。
将来の夢、自分のポテンシャルを追求する夢、やりたいことにチャレンジする夢、教育を受ける夢、そして毎日安全に、食べるものがあり、皆が健康で家族幸せに歌を歌いながら暮らせたらそれで良い、という素朴な夢。そんな素朴なことですら彼らにとっては「夢」で、それすら奪っていく気候危機。
国際会議では、気候変動脆弱国や気候アクティビストたちが、「気候変動の被害の中生き残る(survive)ことだけが目的なのではない!繁栄(thrive)できなければ意味がない!」と訴えています。私たちが支援したマーシャル諸島の気候変動活動家であるImpact Hero 2016キャシーも、彼女の国連で読み上げた詩の中で同じことを言っていました。
「We deserve to do more than just survive, we deserve to thrive」
(私たちにも、生き残るだけでなく、力強く生きて繁栄を追求する価値がある)
私のファミリーたちが、押し寄せる波から安全な場所にいて、毎日ご飯を食べられて、病気になったら医療にありつける状態(=「survive(生き残る)」)を確保できれば良いのではないのです。
それすら実現できない20年でしたが、彼らが失っているものはもっともっと深い。それは、得られなかった教育、できなかった自己実現、どんなに努力しても手に入れられなかった家業の成功、家族に何かがあってもきっと対処できるという心理的安全、彼らの人生の中で持ってきた、色々な形の色々な夢、彼らなりの真の意味での「thrive(繁栄)」なのです。
そして今私たちの暮らしや経済システムは、「thrive」どころか、「survive」すらできない人たちを急激に増やしてしまっています。
気候危機は、「命」すら諦めるレベルに達しているのです。
去年日本の本州と同じ面積が水没したパキスタンの大洪水に続き、今月はミャンマーとバングラデシュを東南アジアで今世紀最大と言われる巨大台風が襲い、甚大な被害が出ています。世界で一番迫害されている民族であるロヒンギャの出身でミャンマーの人権活動家Impact Hero 2018ウェイウェイも今国際社会に支援を訴えていますが、死者の多くはロヒンギャの人たちでした。今、支援が政治的目的のために国軍に制御されているため、ミャンマーに住む60万人のロヒンギャと、バングラデシュの難民キャンプに住む100万人近いロヒンギャ難民が、飢えなど命の危機に晒されています。
やはり、私たちの繁栄のために、他国の誰かの「命」「繁栄」を犠牲にしては、人間として、いけないと思うのです。
私が今回今のタイミングでサモアに行くことを決めたのも、このままでは「命」に関わることが起きてしまう、という考えたくもないことですが、彼らの状況がそのレベルに達していると感じたからです。
これは、気候危機に苦しむひとつのファミリーのお話です。しかし、このようなファミリーが世界には万といる。
このブログが、少しでも、気候危機の真の脅威、政治や科学だけの問題ではなく「人」への影響を理解するきっかけになれば嬉しいです。
そして、実はこの先が本編!この状況を改善するために2週間で行ったサモアでの個人プロジェクトについては、ぜひ後編をお楽しみに!