6歳の頃、当時スーチー氏の写真を持つことは大きなリスクでしたが、父は私に本の間に隠し持っていた彼女の写真を見せて、どれほど素晴らしいかを話してくれました
スーチー氏は私のヒーローでした。しかし先週私は、ハーグ国際司法裁判所で彼女が、私たちロヒンギャに背を向け、大量虐殺を弁護し、その事実を否定するのを見ました。
野党指導者の一人だった私の父とスーチー氏は、「ミャンマーに民主主義をもたらす」という共通の希望を持った同志でした。共に、軍事独裁政権に終止符を打とうとしていたのです。その活動のためにスーチー氏は自宅軟禁され、父は投獄されました。当時18歳だった私も、「父の娘だから」という理由だけで、ミャンマーで最も悪名高い刑務所に7年間投獄されました。
軍事政権が民主的な改革を進め、スーチー氏が解放されると、私たちもアムネスティによって釈放されました。私たちは刑務所から出て、差別や抑圧から解放されると希望に溢れていました。
しかしミャンマーの社会は、ロヒンギャにとってあまりにも悲劇的な状況に変わっていました。私たちはこの国の厄介者となり、大量虐殺のターゲットとなり、残虐に命を奪われ、レイプされ、家や村も破壊され、人としての尊厳も奪われました。
12月10日、法廷でのスーチー氏は「ロヒンギャ」という言葉すら口にせず、大量虐殺のみならず私たちの存在すら否定し、ミャンマー軍が私たちに対して犯した犯罪を擁護しました。
私たちロヒンギャは、スーチー氏がすべての人に正義をもたらしてくれると希望を持っていました。しかし、ロヒンギャにとって悲惨な状況がさらに壊滅的になったのは、スーチー氏が国家顧問になってからでした。
スーチー氏はミャンマーを統一するのではなく、ロヒンギャに対する残虐行為と私たちロヒンギャの存在そのものを否定することで、「スーチー氏の支援者 vs 人権擁護主義者」との間に隔たりを作りました。私のヒーローは地に落ち、一緒に多くの希望も失われてしまったのです。
私にとって、ミャンマー軍の行動がジェノサイドの法的定義を満たしているかどうかは関係ありません。重要なのは説明責任を追及し、正義を得ることであり、だからこそ、この裁判はロヒンギャにとって非常に重要でした。多くのロヒンギャは、真実が語られることを待っていました。
今まで私たちロヒンギャには、法の支配も公正な公開裁判制度も適用されませんでした。スーチー氏は、加害者である警察や国家を信じろといいます。彼らが唱える「正義」の被害者であったスーチー氏本人がそんなことを言うとは、もはや笑うしかありません。
私は今回の公聴会で、胸が痛くなりました。それはミャンマー軍に虐殺され、レイプされ、暴力を受け、家も故郷も奪われた、悲劇に苦しむ何十万人ものロヒンギャの人びとに対する痛みです。そしてシャン、カレン、カチンなど人権を守られない他の少数民族、また平和と正義をもって生きるに値するすべてのビルマ人に対して。私は母国とその国民の現状に、胸が張り裂けそうでした。
しかし同時に、希望も感じていました。私には、過去にロヒンギャへの弾圧に非常に勇敢に反対してきたビルマ人の仲間がいます。彼らが再び行動を起こしてくれることを願っています。
多くの人は、この問題をロヒンギャとミャンマーの民族の対立として捉えようとしていますが、私はそうは思っていません。これは、ミャンマーに住むすべての民族が平等な権利と尊厳を持って平和に暮らせるように、必死に努力している人たちがミャンマーにいる、ということなのです。
私たちロヒンギャが受けた迫害に関し、公正かつ自由な法的プロセスが行われたのは今回が初めてでした。今、全世界に開かれた、公聴会の機会が与えられています。これはかつて、ミャンマーで私自身が経験した裁判と全く異なります。当時の密室裁判では判決はすでに確定していて、裁判は形式だけのものでした。
世界最高裁判所である国際司法裁判所のように開かれた、説明責任が求められる公正な場では、判決は決して「すでに決められた事実」ではなく、ロヒンギャに何が起こったのか全ての事実をふまえ、判決が下されます。
この判決がミャンマーを誇りに思えるような国に戻し、民主主義、正義、平和のなかで暮らしたいと願う少女たちに希望を取り戻す第一歩になることを願っています。
(ウェイウェイ・ヌー)
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